昭和四十一年八月二十九日 朝の御理解
例えば外掃をいたします、お掃除をいたします、きれいに掃いて、確かに掃くはくことだけは、掃いたんですけれども、ちりを取ってゴミ箱まで捨てて、おかなければいけません。ところが、ただ 掃いただけで、ただ真中に、こう掃き寄せておるだけ、といったような事をすると、もうすぐ風が吹いてまいったりしますと、今掃いたばかりのに、もう、ちらかってしまいます。
そこんところが、私は大事だと思う。信心もそうでございます。
折角御理解を頂いた、いたしましたら、それは、ちょうど、お掃除をしたようなもんだと、こう思うのです。
ところが最後の塵を取って捨てないもんですから、又すぐちらかる。そのあとが自然に朝 例えば掃いたら、夕方 又ちらかっておると、いったような、ことは仕方がないのですけれども、掃いたばかりのに、もう ちらかっておると、いったようなことでは、つまらん話しでございますから。折角信心をさして頂くでも、そこんところを、よく心がけ、さして頂いておりますと、それが勿論分からなければなりませんけれども、すぐに、ちらかりません。
例えば皆さんが、お参りをする、御祈念をされる、そして御理解を頂かれる、そして、ま 帰られる時にです。「こんにちは、おかげを頂きまして、有り難うございました」と こんにち頂きました御理解のところだけは、今日一日本気で守らせて頂きます、又守らして下さい、と そこんところの、私はもういっぺん今日の御理解なら、御理解を頂いてから、ここんところだけは、どうぞ、今日一日決して不平不足は、申しません。どうぞ不平不足を申さんで、すみますような、おくり合わせを下さい。と例えば、その特に感じた、頂いたところわです。もういっぺん、神様にお誓いしていくような心もちが私は、掃いた後のちりをゴミ箱に捨てて、いくような、もんじゃなかろうかと、こう思う。
ところが、それを私自身のことですけれども、まぁ ここで、十二時まで、こうして奉仕させて頂きますよね、ですから、それは、たしかに、間違いなく有り難くなっておるんです。確かに有り難くなっておる筈なんです。けれども、お礼をして、下らして頂きますとね、まぁ 家内が、あちらを、ちらかして、おったか、なんかいたしますかね、「はぁ こげん、ちらけぇちから、とかなんとか、その折角有り難かっが、もう 消えてしまうような、ことを言うたり、したり、するんですよ。ですから、おりる時にです。例えば よし 家内がどんなに、ちらかしておりましても、どういう風に、して、おりましても、又はすぐに、お食事さしてもらう、そのお食事の中にどういうお粗末な、いわば その、まずいものがありましても、そのことを不足ども、言うようなことでは、折角の七時間なら七時間の修行が水の泡になってしまうような気がする。
そこん ところの、しめくくりをですね、最後のここば、おります時に、神様にお願いをし、又お誓いをしておりる訳です。
皆さん、ここんところを、どうでしょうかね、そりゃ、いわば、こつあいですよね。信心のすすめていく、折角お参りをした、御祈念も、心いくまで、さして もろうた、御理解も頂いて、ほんに成程だと感じる、ところもあっちた。だけど帰えって、ごらんなさい、ただ 奇麗だけのこと、何かに、ちょつと、つまずきますと、もう ころんどる。ですから、そこんところを、神様にお願いしていくのです。
又お誓いしていくのです。今日は、ここんところを焦点に信心のけいこをさして下さい。
どうぞ ここんところが守れますように、おかすような、ことがございませんように、と又はそこは、お互いの工夫でございますから、様々なことを心ん中に、頂きとめていけれる私は、おかげを頂く。
たしかに掃いたところだけは、掃いたんですけども、「あぁら、もう こげん、ちらかっとる、そうくさい、ゴミを捨てとらんもんね、掃わきためたばかり」それでは、折角掃いたが、掃いたになりませんから、一つそういう心がけで、今日も一日信心を心ん中に頂き続けて、おかげを頂きたいとおもうですね。どうぞ。